ネモフィラだ。
冷たく悲しいネモフィラが見渡す限り広がっている。
慰めるように優しく吹く風にネモフィラが撫でられていて、まるで波立つ海原の真ん中にポツリと1人取り残されてしまったような心地になってしまう。
「どうして泣いているの?」
口から零れた問いかけに応えるものは誰もいない。
優しい風が零れたその言葉を優しくどこかへと運んでいくだけだ。
見渡す限りどこまでも続いている冷たくて悲しい、美しい海原を眺める。
1歩、足を踏み出そうとして躊躇する。
今私は何も履いていないとはいえ、このまま足を踏み出したらネモフィラを潰してしまう。
少し考えて上げかけた足を元の位置に戻し視線をあげると、いつの間にかそこには白い影が1つ。
「・・え?」
うずくまっているその白い影は真っ青なネモフィラの海の中で良く目についた。
何故今まで気が付かなかったんだろう?とかいつからいたんだろうとか普通なら思いそうなものだけれど、そんな事よりも私の心に真っ先に浮かび上がったのは
人だ。人がいた。
と言う喜びだ。
安堵のため息が身体から吐き出されて、身体から力が抜けていく。
そうして初めて自分がずっと不安を感じていたことに気がついた。
白い影はうずくまったまま。
浮き立つ様な気持ちで白い影へと声をかけようとして、その影が震えている事に気がつく。
微かに響く、悲しげな音。
「・・泣いてるの?」
ポツリと響いた私の声に、ピタリと震えが止まる。
そうして、白い影がゆっくりと起き上がり隠れていた黒がさらりと現れた。
はらはらと白の上を滑り落ちる美しい黒が広がり、視線が絡み合う。
悲しみに濡れた美しい瞳が私を見ていた。
「ゆづ!ゆづき!!」
激しく揺さぶられる身体と、耳元で叫ぶ彼の声にふわりと体に意識が戻ってくる。
ゆっくりと瞼を開けば、今にも泣き出しそうな彼がこちらを見つめていた。
「・・・お、はよう?」
状況がいまいち理解できなくて掠れた声で挨拶すると彼はくしゃりと顔を歪ませる。
「おはようじゃねぇよ、バカ。・・・マジで心臓止まるかと思った。」
しがみつくように回された腕が微かに震えていて彼と触れ合っている所がじんわりと暖かく心地いい。
「・・・ネモフィラに会ったよ。」
意識ははっきり戻って来ているのにどこか夢心地でそういうと、彼は眉をしかめる。
「は?なに?ネモフィラ?」
「うん。すっごく美人でね。見惚れちゃった。あれだけ綺麗なら死んでも結婚したいって気持ちわかるなって納得した。」
くすくすと笑いながらそう彼に語りかけると
「ゆづきってたまに殴りたくなるくらいマイペースだよな。」
と、恐ろしく低い声で伝えられて「しまった。」と口をつぐむ。
伺うように見上げた先には不機嫌そうな彼がいる。
「・・・ごめんね。」
小さな声でそう言うと、彼は大きなため息を吐き出した。
「どこか痛いところは?吐き気とか。」
「無いよ。大丈夫。」
「なんでこんな所に倒れてたわけ?転んだ?」
「え?」
言われてようやく辺りを見渡す。
広がっているのは見慣れた光景。
彼のアトリエとリビングをつなぐ廊下のど真ん中。
なんでここに居るんだっけ?と首をひねり思い出しながら言葉を紡ぐ。
「お日様が、お日様がねそこの窓から差し込んでてここの床がすごく暖かったから。わぁーぽかぽかだぁ。ってしてて・・・してて、その。そのまま寝ちゃったみたい。」
「猫かよ。」
誤魔化すように照れ笑いをする私に彼は呆れたように言葉を吐き出した。
「マジで寝てただけ?体調悪い訳じゃないんだな?」
「うん。むしろぐっすりお昼寝したから元気いっぱい。」
未だどこか不安げに尋ねてくる彼に立ち上がり笑いかければ彼は
「俺の心臓が止まるから。こんな所で寝ないで。絶対。」
と酷く真面目な顔をしてそういった。
それがなんだか面白くてくすくすと笑っているとため息と共にようやく立ち上がった彼が
ぼそりと呟く。
「・・あの絵、描き変えるか。」
「やだ!!だめ!!」
とんでもない事を言い出した彼に慌てて抗議の声を上げる。
「・・なんか、縁起悪いだろ。ネモフィラに会ったなんて。」
「そんな事ない。」
不安そうな彼にはっきりと断言する。
だって、彼女は
美しいあの海原で1人泣いていた彼女は
「きっと、描いてくれたのが嬉しくて会いに来てくれたのよ。」
私を見て、嬉しそうに微笑んだのだから。
「だから、消さないで。お願い。」
真っ直ぐ彼を見つめてそう言えば彼は暫く黙りこみ、そうしてようやく
「わかった。」
と短く答えてくれた。
ほっとして「ありがとう!」と彼に抱きつけば「腹減った。」と彼が言うのでリビングへと向かう。
ふと、後ろを振り向けば開け放たれた彼のアトリエの奥に
とても美しいネモフィラの海が見えた。
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お題:ネモフィラ